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大和の水上特攻作戦は、もともと「天一号作戦」にも「菊水作戦」にも組み込まれていませんでした。
この為、事情通の間では大和の水上特攻を「天一号作戦」とも「菊水作戦」と呼ばずに「沖縄水上特攻」と呼ぶ場合が多いのですが、戦闘詳報(当時の公式戦闘記録報告書)には「二水戦機密特第二九号號 昭和二十年四月十日 天一號作戦海上特攻隊[1YB主力(大和2Sd)]戦闘詳報」(アテネ書房刊「戦艦大和・武蔵戦闘記録」P311)とあり、公式には「天一号作戦」と呼ぶのが正しいので、今回の「男たちの大和」シリーズでは「天一号作戦」で統一されています。
天号作戦と菊水作戦の違い 調査資料(朝雲新聞社刊防衛庁防衛研究所戦史室著 戦史叢書17「沖縄方面海軍作戦」)
天号作戦 菊水作戦 目的 沖縄、台湾など沖縄以南の東シナ海周辺要域の連合軍に対する航空攻撃を主体とした総力戦。陸軍にとってはまだ本土決戦が残っていたが、海軍にとっては最期の防衛戦であった。 沖縄来攻の米軍に対する特攻も含む航空攻撃。 参加兵力 帝国陸軍・海軍の航空及び艦艇全兵力。 第一機動基地航空部隊を主体とした航空兵力。 作戦数 地域別に判れ、天一号(沖縄)作戦、天二号(台湾)作戦、天三号(東南シナ海沿岸)作戦、天四号(海南島を含む以西)の4作戦があるが、海軍は天一号作戦に主体をおいた。 回数別に分かれており、1945年4月6日の菊水一号作戦(第一次攻撃)から6月22日の菊水十号作戦(第10次攻撃)までの10回が行われた。 作戦開始 1945年3月26日 1945年4月6日
上記表より、「天一号作戦」は東シナ海要域の連合軍に対する帝国陸海軍の航空機・艦艇を含む広域の総力戦で、「菊水作戦」は1航空隊の沖縄の米軍に対する航空攻撃戦である事が判ります。
「天一号作戦」での大和の本来の任務は、豊後水道から佐世保へ回航などで、敵機を引きつけ「天一号作戦」での航空攻撃をやりやすくさせる、いわば囮的な役目でした。しかし米軍の沖縄への上陸により、急遽大和は沖縄への水上特攻へ駆り出されてしまいます。奇しくも1945年4月6日には「菊水一号作戦」も発令され、この「菊水一号作戦」の側面からの支援、つまり米軍の引きつけ役として沖縄に出撃する事となったのです。このよう経緯も、「天一号作戦」と「菊水作戦」が混同されてしまった要因の一つと考えられます。
結局似通った目的の作戦及び発令時期の一致が両作戦を混同してしまう原因となったのではないかと思われます。
ところで上記の資料をいろいろ調べているうちに両作戦が混同された元凶とも言うべき文章を見つけました。
それは、「吉田満」著の「戦艦大和ノ最期」です。
「吉田満」著「戦艦大和ノ最後」講談社版 1991年8版のP24、4行目では、下記のような記述があります。
【引用開始 】
本作戦(天一号作戦)ハ、沖縄ノ米国上陸地点ニ対スルワガ特攻攻撃ト不離一体ニシテ、更ニ陸軍ノ地上反抗トモ呼応シ、航空総攻撃ヲ企図スル「菊水作戦」ノ一環ヲナス
【引用終了】
これはもちろん間違いです。本来海軍の航空・艦艇の総力を結集した広域作戦である「天一号作戦」が沖縄限定の航空攻撃戦である「菊水作戦」の一環である訳がありません。「天一号作戦」は、あくまで「菊水作戦」とは別の作戦です。
以上、大和艦隊の特攻は公式には「天一号作戦」、内容的には「沖縄水上特攻作戦」であり、「菊水作戦」ではありません。
尚、この件に関してはワタ艦掲示板でT.I 氏、今泉淳氏、戦艦刑事K氏、IWA氏、山野内氏からご指導頂きました。下が今回紹介したアテネ書房刊「戦艦大和・武蔵戦闘記録」です。大和と武蔵の当時の戦闘記録をそのまま掲載してますので、恵比寿にある「防衛研究所図書館」に行く必要もありません。というか、あそこの資料よりも何十倍も判読しやすい資料です。これこそ真の一次資料、大和・武蔵の研究をするなら是非とも所有しておかなくてはならない本でしょう。 下記が朝雲新聞社刊防衛庁防衛研究所戦史室著 戦史叢書17「沖縄方面海軍作戦」及び「マリアナ沖海戦」と「フィリッピン沖海戦(2)」です。この解説のように太平洋戦争中の各作戦が網羅されていますので、太平洋戦争をきちんと調べるのであれば手元に置いておきたい書籍ですね。
菊水作戦に出撃する大和 | |
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● 大和型の重油搭載量は6,300噸ではなく4,000噸プラス
大和型の重油搭載量は就役後の改装により減少しています。
というのは、計画上は重油を満載(6,300噸)した場合、16節で7,200浬の航続距離性能となるはずでした。しかし実際公試運転を行ったところ計画時より遙かに燃費が良く、航続力は16節で10,000浬〜11,000浬となる事が判りました。
この為大和型の設計者である松本喜太郎氏は、その著作「戦艦大和・武蔵設計と建造」に於いて、以下のように書いてます。(ここでは松本喜太郎著芳賀書店刊「戦艦大和・武蔵設計と建造」第二版 P283より引用しています。)
【引用開始 】
重油の減載
大和は航続力16節で7,200浬の設計に対し、所用燃料として重油の満載量6,300噸と決定されて竣工した。ところが、基準速力での公試の結果から算出された航続力は16節で10,000浬をこえた。 本艦の公試排水量は計画の68,200噸に対して、じっさいの竣工重量は69,100噸となり900噸の増加をみた。また竣工後におこった副砲関係の防御力増強などの為にも重量を要するから、喫水は深くなり、予備浮力も減少して面白くないので相当量の重油を減少する事になった。(後略)
【引用終了 】
つまり、重油搭載量を計画時の航続距離を満たすだけに減載させ、超過した装甲等の重量と相殺した訳です。
大和公試時の実際の算出航続距離は、6,300噸の搭載量、16節の速度で、計画時の7,200浬を上回る10,000浬〜11,000浬(大和型戦艦2で表記有り)だったのですから、計画時の1.39〜1.53倍となります。逆算すると重油搭載量は4,500噸〜4,120噸で良い事になります。
上記本には記載されていませんが、その後の対空火器増設に於いてさらに搭載量を縮載された可能性も考えられ、天一号作戦時は、ほぼ4,000噸程度になっていた可能性も考えられます。
● 天一号作戦前の重油搭載量
先に紹介させて頂いた「二水戦機密特第二九号號 昭和二十年四月十日 天一號作戦海上特攻隊[1YB主力(大和2Sd)]戦闘詳報」(アテネ書房刊「戦艦大和・武蔵戦闘記録」)では各艦艇の重油搭載量は以下の通りになっています。松本喜太郎著「戦艦大和・武蔵設計と建造」は、現在先に紹介したアテネ書房より「戦艦大和設計と建造」として加筆・修正され発売されています。
大和・武蔵のバイブル本とも言われている本ですし、ようは帝国日本海軍の集大成というべき戦艦の本ですから、大和・武蔵だけでなく日本の旧艦艇を研究するならば是非とも所有しておかなくてはならない本でしょう。下は、絶版となっている松本喜太郎著「戦艦大和・武蔵設計と建造」3冊です。まあ好事家でない限り「戦艦大和設計と建造」を持っていれば下の3冊は持って無くても十分です。 ![]()
引用ページ 日時 搭載量の記述 P359 三月二七日 1YB急速出撃準備{駆逐艦燃料満載、大和3000屯、矢矧1000屯、
残工事促進未了工事打切復旧諸搭載}P365〜P366 三月五日
(おそらく四月五日の間違え)(一)出撃部隊ノ燃料補給實施
花月(六〇〇屯)朝霧 -> 大和(一部徳山ニテ補給)
初霜(三〇〇屯)-> 矢矧
槇・榧(各二〇〇屯)−>17dg
朝霧−>霞
朝霧、初霜、槇、榧ハ徳島ニテ補給満載
(註)GFヨリ指示アリ徳山ニ於ケル補給量ヲ二〇〇〇屯以内トスP413 四月六日 二、燃料
出撃時在庫量
大和:四〇〇〇屯
矢矧:一二五〇屯
冬月: 九〇〇屯
涼月: 九〇〇屯
磯風: 五九九屯
濱風: 五九九屯
雪風: 五八八屯
朝霜: 五九九屯
霞 : 五四〇屯
初霜: 五〇〇屯
大和の沖縄までの経路を延ばすと片道分で600浬となりますが、この航続性能を元に計算してみると沖縄にたどり着くだけなら、400噸(もちろん戦闘行動をしないと仮定した場合)で十分となります。例え戦闘行動をとるとしても片道であれば1000噸もあれば十分でしょう。
天一号作戦発令時に大和は既に三〇〇〇噸搭載しており、四月五日には花月(六〇〇噸)及び朝霧(三〇〇噸程度か?)の補給量を受けています。大和の自然消費量がトータルで二〇〇噸程度(沖縄までの片道の半分程度)と考えるならこの時点で三七〇〇噸程度は積んでいたのではないかと考えられます。その後、徳山では朝霧(四〇〇噸程度?)、槇と榧(合計四〇〇噸程度?)、初霜(三〇〇噸程度?)と考えると九〇〇噸程度はまだ供給余地があり、これからすると満載(四〇〇〇噸+α)まで積んだのではないかと考えられます。ただし花月がその後五〇〇噸補給しているという話もあり満載まで積む事が出来たのかは確実ではありませんが、ほぼ満載状態であったと考えられます。
● なぜ片道特攻と言う虚実になってしまったのか?
この天一号作戦が片道特攻になった要因をおじさんより以下の通り情報を頂きました。
(ワタ艦掲示板引用開始)
改めて「吉田 満」著「戦艦大和ノ最後」を読みました。
「出撃ノ朝」の項の数行前に
【戦艦大和ノ最後:吉田満著(講談社刊 1991年8版) P24 4行目より】
【本の引用開始】
未明、燃料搭載作業終了トトモニ両側ノ駆逐艦ノ横付ケヲ離ス
駆逐艦ノ重油搭載量モトヨリ論ズルニ足ラズ シカモソノ提供ニヨリ
辛ウジテ「大和」ノ所要搭載量ヲ満タセリ
恐ラクハ艦隊保有量ヲ傾ケテノ補給ナルベシ
明日ヨリ駆逐艦ノ缶ハ干上ガルカ
【本の引用終了】
とあります。
終戦直後から「所要搭載量」は満たしていたと記録されていたわけですがほとんど気にしていませんでした。
両舷に横付けしていたのは「花月」と「朝霜」というわけです。
そのあと両艦とも徳山で補給を受けた訳ですね。
但し吉田氏はこのあとの「作戦発動」の項では
【本の引用開始】
カクテ全艦、燃料搭載量ハ辛ウジテ往路ヲ満タスノミ
帰還ノ方途、成否ハ一顧ダニサレズ
【本引用追加・戦艦大和ノ最後:吉田満著、講談社版 1991年8版】
世界無比ヲ誇ル「大和」ノ四十六糎主砲、砲弾搭載量ノ最大限ヲ備エ気負イニ立ツモ、
ソノ使命ハ一箇ノ囮ニ過ギズ、僅カニ片路一杯ノ重油ニ縋ル
【本の引用終了】
と矛盾した記述がありますので、多くはここからの引用で片道燃料としたものと思われます。
相反する記述のうち戦闘詳報及び作戦命令等で、前者の記述は裏付けられますので所要搭載量を満たしたのが正しく、後者の記述は「小説」の中のこととなるのかな。
もっとしっかりと読み込まないといけません。反省しきり
(ワタ艦掲示板引用終了)
おじさん、ありがとうございます。
私自身この件を改めて知りましたが、この小説を一次資料として多くの人が引用した為に大和の行動や帝国日本海軍に対しかなりの誤解が生じているようです。手首切り事件や先の天一号作戦が菊水作戦の一環だった等の誤解の原因は全てこの小説だったようです。
吉田満著の「戦艦大和ノ最後」はあくまで戦争小説(フィクション)であり戦記(ノンフィクション)では無い事を十分認識しなければなりません。
尚、この件に関してはヤーマン1号氏、まつの氏、おじさん氏、IWA氏、豚雲海氏にご指導、ご協力及び情報提供を頂きました。松本喜太郎氏の「戦艦大和 その生涯の技術報告」(再建社版)は戦後中央公論社から出版されていた科学雑誌「自然」の連載をまとめた本で、初めて具体的かつ詳細な大和の情報が掲載された書籍でした。(昭和27年11月発行) 「戦艦大和 その生涯の技術報告」に新資料や写真図面及び英文資料を大幅に追加した改訂新装版として「戦艦大和武蔵設計と建造」第1版が昭和36年10月に芳賀書店より発売されました。 更に10年後の昭和46年9月に「戦艦大和武蔵設計と建造」第2版が同じく芳賀書店より発売されました。それから30年近く、アテネ書房から「戦艦大和設計と建造」が出るまでは絶版状態でした。
「死ニ方用意」という言葉は嫌いです。 |
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【ワタ艦の大和関係コンテンツ】 | 大和の考証と 模型製作 |
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大和型模型 の歴史 |
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下記は天一号作戦時の戦艦大和の火器管制配置です。
大和型の兵装の火器管制と変換については、【大和館:戦艦大和型艦中央部の火器管制】 と、【大和館:戦艦大和型艦中央部の変換】 をご参照下さい
下図は天一号作戦時の大和の木甲板の状況です。
私事になりますが、このワタ艦というウェブを立ち上げた一番の切っ掛けと呼ぶものが、黒い甲板の大和でした。
1997年頃当時、ニフティサーブ(現アットニフティ)のディスプレィ模型フォーラムの艦船会議室で、黒甲板についての論議が白熱した時、「インターネット内にはもっと大和の黒甲板に関する情報があるに違いない」と思い込み、いろいろなキーワードで検索しまくりました。 最終的には、当時もっともヒット件数の多い検索エンジン「goo」を使い、「大和」という単体のキーワードでチェックしました。 結果千数百件のヒットを得ましたが、黒甲板に関する情報は一つもありませんでした。
そこで「こりゃもう自分でウェブ立ち上げて情報を呼び寄せるしかないなぁ」と言う事でワタ艦を立ち上げた訳です。 【多分、インターネット上で黒甲板の大和をアップしたのは私が最初だと思う。】
結局これが功を奏したのか、多くの親切な艦船愛好者の方々からご指導、情報の提供を頂いたり、それに触発され私自身が調べたりした為、捷一号作戦時の大和・武蔵の黒甲板については、当時の乗組員(しかも個人を特定できる)の複数の証言、塗装時の作業状況、塗った時間、目的、組成、戦闘詳報での記載等多くの情報が集まり、現在では間違いなく黒く塗ったと結論づけてます。
この当時は、当然天一号作戦時にも大和の甲板を黒く塗装したものと思い込み、その裏付けを取るべく資料を集めていたのですが、おかしな事にどうしても確定した証拠が見つからないのです。
特に甲板を黒く塗装した時期が確定できません。
まずは出港準備時に塗ったかと思ったのですが、1945年4月5日の大和甲板上での記念写真では甲板は木甲板のままで黒く塗られておらず、少なくとも同年4月5日以前は塗っていないと判断できます。
では、出港までに塗ったのでしょうか?これについては大和出撃時に、第2艦隊参謀の宮本中佐が、大和の第一艦橋から甲板を見渡し、「盥(タライ)」のようなと比喩しており、出撃時の同年4月6日の時点でも塗っていない事が判りました。
それでは捷一号作戦時と同じく出撃後洋上で塗ったのでしょうか?
捷一号作戦時には下士官達総出で2時間かけて塗装したのですから、当然天一号作戦時の戦闘詳報に記載されるはずです。しかし戦闘詳報には一切塗装したと記載されていません。
そういえば、捷一号作戦時のように複数の個人を特定できる乗組員の証言も無ければ、塗装時の作業状況を書いた戦記や資料にも当たった事がありません。
そこで初めて天一号作戦時に、大和は甲板を黒く塗ってはいなかったのではないかと思い始めました。 なぜなら、天一号作戦では夜間に突破しなければならない敵制空権下の狭い海峡もなければ、敵戦艦群と必ずしも夜戦を行う事にはなりません。つまり、天一号作戦時だからといって甲板を黒く塗る必然性が無いのです。
もちろんカモフラージュの為という考え方も浮かびました。
しかしよく考えてみてください。停泊時であれば黒い甲板もカモフラージュとして効果があるかもしれませんが、航行中は長大なウェーキ(航跡)という隠しようのない目印を出してますので、甲板だけ黒く塗ったって意味はありません。逆に黒甲板をカモフラージュというなら、何故停泊時から塗っておかないんでしょう?当時の艦艇は動き出すまでには時間がかかったわけですから、それこそ甲板を黒く塗って隠れみのにする必要があるんですけど。何にせよ日本帝国海軍はカモフラージュについては殆ど感心が無く、油が殆どなくなって全く動けなくなるまで戦艦にも迷彩塗装を施さなかったのですから、この時期カモフラージュ理由で甲板を黒く塗ったとは思えません。
他にも天一号作戦の大和の写真を見ると甲板が黒っぽいので黒く塗ったという意見もありますが、木甲板というものは濡れると非常に暗い色になるので、モノクロ写真からでは判断するのは危険です。しかも捷一号作戦時と違い曇天の空から写しているので暗くなりがちですし、昭和19年初めより甲板磨きが行われなくなり、木甲板の色はかなりくすんだ色になっていたと言う証言もあり、これからも暗めに映る傾向にあります。この件は大和館で詳しく述べてますのでご参照下さい(後の紹介のリンクから飛べます)
話を戻しますが、丁度その時山野内氏の「模型海と空」の掲示板で元乗組員であるY氏(ここでは証せませんが、今回の男たちの大和やウェブでも活動されている有名な元大和の乗組員です:もし本当にこの方の名前を知りたいなら私個人宛にメール下さい)と親交のある南十蔵氏に確認して頂いたところ、やはり天一号作戦時には甲板を黒く塗っていないという証言を得る事が出来ました。(下記リンク先のログをご参照下さい )
山野内氏の「模型海と空」のログ抜粋(No.035:天一号作戦時の大和甲板の塗装、No.038:大和の甲板色)
この為、考察的にも証言的にも、現状天一号作戦時には大和の甲板を黒く塗ってはいないと考えています。この詳細に関しては下記リンク先をクリックしてください。
【大和館:天一号作戦時にも大和は木甲板を黒く塗装したのか?】
とはいえ、もし天一号作戦が黒甲板だという証拠をお持ちの方がいらっしゃたら是非とも下記の情報を頂ければと思っています。ただ、どっかに書いてあったとか、それを言った人が特定できないとか、伝聞で聞いたんですがぁ等はご勘弁を..
● 甲板を黒く塗った言う乗組員(個人を特定できる)の複数の証言及び当時の作業状況
● 甲板を黒く塗った日時
● 出航後塗ったとされるなら何故戦闘詳報に記載されなかったのか?
● 黒の塗料の組成
捷一号作戦時にはリンガ泊地で十分な燃料を使い練習できたので、それ相応のススが発生したと思うが、内地では殆ど動かなかったのでススは殆ど出ていないと思われる。それなら何を使用したのか。
● 黒い甲板をカモフラージュとするなら、以下の疑問があります。
1.何故停泊時にも塗らなかったのか?
艦艇の場合は、航行中大きな航跡が出てしまうので対空迷彩は殆ど意味がない。
むしろ停泊時の方が有効なはずである。戦闘時だから塗るというのはおかしいのではないか?
2.日本海軍がこの時点でカモフラージュを重視していたなら、何故大和の艦舷を外舷1号なり2号
なりで迷彩塗装しなかったのか?
少なくとも敵潜水艦や敵水上艦に対しては有効と考えられるのですが....
● その他
有用な情報がありましたらご教授下さい。
戦艦大和、沖縄特攻の真実! |
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この画をクリックすると、その解説?マンガが見られます。 |
【ワタ艦の大和関係コンテンツ】 | 大和の考証と 模型製作 |
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大和型模型 の歴史 |
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下図は大和の空中線支柱が与える後部主砲の射撃界の制限範囲です。
今回の男たちの大和版天一号作戦時の大和の後部空中線支柱が撤去された状態で模型化されています。 これは天一号作戦時の大和の写真に空中線支柱が写っていないように見受けられる為です。
もともとこの空中線支柱は後部主砲射撃時に射界制限となる為、何らかのかたちで起倒出来るのではないかと考えられていましたが、決定的な証拠は上がっていません。しかしながら下記におじさん氏より後部空中線支柱の起倒方法に関する考察を図示してみましたのでご参照下さい
【大和館:大和型戦艦の艦尾空中線支柱の起倒方法についての考察】
この空中線支柱を起倒ではなく撤去した状態で出撃していたと考えた場合、どの時点で空中線支柱を撤去したのかは定かではありません。ただ単純に考えると天一号作戦前までは海軍軍令部とも連絡を取る必要もあるので温存していたのではないかと推察します。この為、天一号作戦発令時もしくは沖縄特攻直前に撤去したのではないかと私は考えています。この場合、港湾施設のない洋上で立った状態のまま空中線支柱を撤去するのは難しいと考えられますので、やはり何らかの起倒方式を使い横倒しにした状態で撤去したものと推察しています。
某宇宙戦艦の構造的欠陥を解析する もう一つ馬鹿話を。大和型の空中線支柱を見ていると、「某宇宙戦艦ヤマトの垂直尾翼も後部主砲発射時に危ないんじゃない?」と気になってきませんか?ほれ、気になって寝付けなくなりませんか?そんなあなたにこの解析コミックをご用意致しました。
某宇宙戦艦の構造的欠陥を解析する