• 捷一号作戦時の戦艦武蔵、艦中央部兵装配置の考察

    捷一号作戦時の戦艦武蔵の艦中央部兵装配置には諸説が多いので、私の知り得る説を図示で示します。

    捷一号作戦時の戦艦武蔵 バリエーション1

     捷一号作戦時の武蔵の中央兵装配置には諸説ありますが、toshiさんの情報等で再考したところ上図の構成とさせて頂きました。噴進砲を搭載したという証言もあるのですが、開発時期や設置位置に疑問がある為採用していません。福井静夫氏の「世界戦艦物語」の巻末で、第7,第8探照灯跡に単装機銃を搭載したと記述されてますのでそれに従いました。増設された下段の高角砲甲板には3連装機銃が4基設置されたという証言もありますが、学研の「WWII SERIES DX Vol.2 戦艦大和」のP85の戦艦武蔵の拡大写真で3基装備が確認されているため3基にしています。また下段高角砲甲板中央後ろ寄りに白丸のようなものが見えるのですが、火器管制装置の可能性もありますが、手塚正巳著「軍艦武蔵」では3基管制(※)だったようですので、今回は採用していません。艦舷の3連装25mm機銃は、「WWII SERIES DX Vol.2 戦艦大和」のP85の戦艦武蔵の拡大写真での解説では両舷の機銃座はシールド式と書いてありますが、今回は先の「軍艦武蔵」の証言を採用しシールド無しとしています。上図の火器管制配置についてはデータの「3.戦艦大和型の艦中央部機銃及び探照灯の管制」に記載してあります。
    ※手塚正巳著「軍艦武藏」上巻P447〜P448にかけて(引用開始)「右舷第三機銃群は、この年の4月呉において増設されたもので、五番、七番、特設一番機銃から構成された特設機銃群であった。」(引用終了)とされています。この証言上での特設一番機銃とは下部高角砲甲板上に設置された3連装機関砲を指し、またこの記述からは一基の火器管制装置で3基を管制していた事になります。

    捷一号作戦時の戦艦武蔵 バリエーション1(従来説)

     これは以前の説です。現行説との違いは、下段高角砲甲板上の火器管制装置の存在です。学研の「WWII SERIES DX Vol.2 戦艦大和」のP85の戦艦武蔵の拡大写真には下段高角砲甲板中央後ろ寄りに白丸のようなものが見えるので、これを火器管制装置と推測しています。これにより、図の白が竣工時から装備された25mm機関砲の火器管制の分担で、黄色、緑、水色が2基管制の火器管制装置、赤が3基管制の火器管制装置となります。これらはいずれも1944年4月の入渠時に行われたと考えられます。 艦舷の3連装25mm機銃は、証言などでシールド無しとされていますが、先の「WWII SERIES DX Vol.2 戦艦大和」のP85の戦艦武蔵の拡大写真での解説では両舷の機銃座はシールド式と書いてありますのでそれに従っています。尚、この本ではそこまで確認は出来ません。(原版なら判るかもしれませんけど) また下段高角砲甲板周囲の3連装25mm機銃もシールド無しと証言されていますが、丸スペシャル52大和・武蔵のP65等の「ブルネイ湾から出撃する武蔵」の写真では、この高角砲甲板周囲に増設された後部の機銃群の部分がシールド付きのような丸みをおびて見えるので、あえてシールド付きとしていました。

    捷一号作戦時の戦艦武蔵 バリエーション2

     これは私の私案です。第2艦橋横前面の探照灯管制装置を火器管制装置に取り替えたため、探照灯が2基外される事になったと思われます。取り外すのは第7,第8探照灯の後に単装機銃を搭載したとありますが、その証言がどこから出てきたのかよく判りません。私の知る限りはニチモの武蔵ではなかったかと思います。単装機銃を置くよりも、下段3連装機銃用の火器管制装置を置いた方がより合理的な気がしましたので、上図のような配置としました。実際下段高角砲甲板上に火器管制装置を搭載しない説もあり、その場合この位置に置いた可能性も考えられます。ただし視界が狭いのでもう少し高い位置に取り付けた可能性も考えられますが、「ブルネイ湾から出撃する武蔵」の写真ではこの位置にそのような高い構造物は見あたりません。あるいは第7,第8探照灯はそのままとし第1,第2探照灯を取り外して付けた可能性も考えられますが、将来予定通り高角砲を増設する際、探照灯の基数が更に半減してしまいます。大和が最後まで6基の探照灯を取り付けたままだったと考えると、当時の日本海軍の探照灯を必要と感じていたと推測されますので、やはり7,8番探照灯を外したと考えた方が合理的と思えます。

    捷一号作戦時の戦艦武蔵 バリエーション3

     上図は艦舷の3連装機銃のみをシールド付きとしていますが、これは先の「WWII SERIES DX Vol.2 戦艦大和」のP85の戦艦武蔵の拡大写真の解説をそのまま信じた為です。

    捷一号作戦時の戦艦武蔵 塚田氏説

     最近では、捷一号作戦時の戦艦武蔵は、第1,2探照灯後に噴進砲(図中の黄色)を搭載したというのが、トレンドになっています。これは塚田義明著「戦艦武蔵の最後」(光人社 1994年刊)のP178〜P180で、武蔵がマリアナ沖海戦から呉に帰り(1944年6月24日)、出撃(1944年7月8日)する迄の約2週間の対空火器強化時の際に噴進砲を搭載し、試射まで行ったという証言によるものです。しかし、 噴進砲自体がマリアナ沖海戦後の防空対策として開発されたもので、検討会やプランニングがどんなに迅速に進んだとしても開発にGOがかかるのは、1944年6月末から7月であり、1944年7月8日までの1週間程度で、噴進砲を搭載し、試射を行うのは常識的に不可能です。実際、CONWAY Warship 34の、Hans Lengerer氏と Tomoko Rehm-Takahara氏の共著「The 12cm Multiple Rocket Launcher of the Imperial Japanese Navy」によると、噴進砲の試作第一号自体の完成が1944年7月末、試射が1944年8月となっており、武蔵への噴進砲搭載及び試射が不可能である事が判っています。他の要因についてもあるのですが、これは別途噴進砲の解説のページを作り考証していく予定です。 上図は更に、塚田氏の証言と他の方の証言を加味して作成してみた武蔵です。 塚田氏説では、1944年4月入渠し対空火器増加時に、12.7cm連装高角砲既存6基を12基に増加(一般的には12.7cm連装高角砲既存6基)、3連装25mm機関砲既設8基を29基に増加。(一般的には16基を30基に増加。ただし高角砲甲板の6基も含めているので、この増設数を除くと24基の増設となります)また13mm機連装関砲は4基となってますので、この通りに作図してみました。