• 3.大和・武蔵の作戦行動と乾舷の塗装の考察

     1) 既知の大和・武蔵の艦体の塗装
     まずは、これまでに言われてきた、大和・武蔵の艦艇色についてまとめてみました。

    大和
    武蔵
    建造時
    呉海軍工廠にて竣工した為呉工廠軍艦色だと推定される。 佐世保海軍工廠にて竣工した為佐世保工廠軍艦色だと推定される。
    捷一号作戦頃まで
    大和・武蔵とも修理・改装を日本の場合はほとんどを呉工廠、日本以外ではトラック島やリンガ泊地等で行っている。この為日本からの出撃においては呉工廠軍艦色、その他はシンガポールからの塗料調達による塗装となる。
    捷一号作戦頃 艦艇色は南方では強力な日差しのため退色が激しく、また錆により見た目茶色がかった色だったという説があります。(きうちさんのニフティFMOD・艦船会議室#4867の発言)
    また佐藤和正著光人社刊「レイテ沖の日米決戦」(※)P145〜P146では、武蔵を除く参加艦艇の外舷は、黒々としていたとの記述があります。これは錆や汚れや経時によるものですが、本来の艦艇色より退色が進むと黒っぽくなる傾向があるようです。
    佐藤和正著光人社刊「レイテ沖の日米決戦」(※)P146での記述によると、武蔵の猪口艦長は昭和19年9月に、シンガポールの工廠からわざわざ塗料を取り寄せて1日かけて武蔵の外舷を塗りなおしを行なったようである。他の艦は戦闘により汚れるし乗員たちの労力や時間をむやみに費やす為行なわなかったが、唯一武蔵のみ塗装を行なったものと思われる。(艦の塗装の裁量権は艦長が持つ為)この為武蔵は捷一号作戦時には明るい灰色(銀鼠色)だったようだ。これが後に武蔵を敵に引きつけるため白く目立つように塗ったという逸話を作ったものだと思われる。

    天一号作戦時
    大和は昭和19年11月24日より昭和20年1月3日まで呉工廠に入渠し修理・対空火器増強工事をしていますので、この時に塗装を行った可能性がありますので、呉工廠色と思われます。
    しかしながら、外舷1号および2号で塗り分けられていたという説を、2000年頃出版された主婦の友社/ムック本・クルマの中で、タミヤ社の社長が述べていたようです。(未確認) 当時の状況であれば塗っていた可能性も十分考えられますが、証言資料が無い為、信憑性は薄いと思われます。

    (※)
    この本は現在光人社NF文庫の「レイテ沖海戦」として出版されています。
    同記事の内容はP162〜P163迄に記述されています。

    2) 大和関連書籍による、既存艦艇色の新事実

     実質的には新資料ではありませんが、下記資料に大和・武蔵だけでなく日本艦艇に関する新事実が記載されています。

    艦艇色
    記述書籍名
    内容・考察
    追記事項
    吉田俊雄著

    海の戦記 特攻 戦艦・大和
    左記資料のP100 には次の記述があります。引用開始)初めの予定では、海峡を日没時に突破し、夜をかけてサマール島沖を南下、黎明にレイテ泊地に突入する事になっていた。夜は、飛行機が飛べない。昼は、飛べる。だから、正念場が黎明になるようにし、海峡からレイテまで、夜行でいこうとした。艦を黒く塗ったのだ。(引用終わり) つまり、サンベルナルディノ海峡からレイテまでを夜間に突破する予定だった為、艦を黒く塗装したと記述されています。
     確かに当時は夜間に航空機での索敵は出来ないので、船舶や潜水艦、及び島内に設置された監視設備に対する対策と思われますが、航行中である為まずは舷側及び艦構造物の上部については塗装できなかったと考えられます。おそらく艦構造物を手に届く範囲で黒く塗っただけと思われます
    もともと日本の艦艇色は他の国に比べても暗い方でしたので、黒く塗ってどの程度の隠匿効果があったのかは判りません。逆をいえば、外地での日本艦艇色はかなり明るめだった可能性も考えられます。
     また、この文章からすると大和及び武蔵のみ黒く塗ったとは思えません。おそらく捷一号作戦に参加した栗田艦隊全ての艦艇がこの塗装をした可能性もあります。
    明灰
    白色
    阿部安雄氏

    海軍艦艇の迷彩及び艤装
    戦前船舶第6号(システム遠藤発行)
    左記資料のP29には、阿部安雄氏が防衛研究所図書館で調査した海軍艦政本部 牧野技術大佐の「艦政本部第4部」便覧裏に記述されていた内容を調査し記載していますが、これによると大戦当時には艦艇色を暗い灰色から明灰白色に変更したと記述されています。確かに大戦中の艦艇色の資料はないのですが、上記の考察及び武蔵の明るい灰色の目撃談からすると大和・武蔵はかなり明るい灰色で塗色されていた可能性は非常に大きいと思われます。 大和・武蔵だけではなく、他の艦艇も明るい灰色で塗色されていた可能性があると思われます。
    明灰
    白色
    リントン・ウェルズ2世著
    帝国海軍艦船の塗色 1904-45
    (海人社刊世界の艦船 1983年 4月号 No.320)
    リントン・ウェルズ2世氏は、先のレポートで、太平洋戦争中に艦艇色は銀ねずみ色に変ったと記述している。
    原因としては黒の比率が少なくなった為とされるが、黒の成分はカーボンブラックで使われていると思われ、やはり上記の理由により明るい灰色に変更したのではないかと思われます。
    濃い灰色
    ?
    福井静夫著
    写真集日本の軍艦 P246 軍艦の色
    左記の本では、以下のように表記されています。
    (引用開始)このねずみ色は平時の諸外国艦艇のねずみ色より濃く、俗に”戦時塗色”(War Paper) と称され、現在の海上自衛隊、米海軍のものと大差ない。(引用終わり)
    もし表記通り現在の自衛隊や米海軍の塗色と近いなら灰色でも濃い灰色ではなく、むしろ明るく青みがかった灰色ではないかと思われます。

    4.捷一号作戦以降の大和・武蔵の甲板塗粧の考察

    ・資料と証言

    「軍艦大和戦闘詳報 第三號」の記録より戦艦大和は捷一号作戦時に木甲板を黒く塗っています。

    所在 気象   天候・風向風速・気温・視界(米) 経過概要 記事
    午前六時 正午 午後六時
    十八 リンガ
    二○○出港
    北緯一度
    二十六分
    東経百六度
    三十一分

    南東七
    三○
    五・二、○
    半晴
    南東五
    三○、五
    五○、○

    南四、三
    二九、五
    三、○
    ○二○○ 「ブルネイ」泊地ニ向ケ發 Y八警戒航行序列
    (図略)

    一○三○ 露天甲板黒色塗粧ヲナス
    一二二七 北緯一度二九分東経一○六度三八分ニ於イテ一○度に変針

    この資料は、防衛研究所図書館でも閲覧できますが、アテネ書房刊「戦艦大和・武蔵戦闘記録」(ISBN4-87152-210-5C0021)のP18にも掲載されています。この記録からすると航海中、しかも2時間弱という時間で塗粧された事になります。
    また、元乗艦者の証言としては、吉田俊雄著 「海の戦記 特攻 戦艦・大和」 (R出版 1971年7月25日初版発行)に具体的に書かれています。

    P69 10捷一号作戦の章

    (引用開始)10時半「露天甲板塗り方」の号令がかかり、航海中に、黒の不燃性塗料を艦の外側全部に塗った。(中略)夜に備えたのである。(中略)夜の海で、夜の闇を最大限に活用しながら大跳躍をするには、闇に溶ける忍者の服装がいい。(中略..P70)ペンキにけつまずいて、デッキにこぼした。こりゃえらいことした。はよ拭かなふかなあかん、とキョロキョロしとったら、甲板士官がドヅきよった。ボヤボヤするな、これから塗るとこやないかって。(引用終わり)

    ・何故塗ったのか?

    木甲板を黒の不燃性塗料で塗装する理由は以下の2つが考えられます。

    ・ 戦闘時に木甲板を被弾した際の延焼を防ぐ為不燃性塗料を使用した。

    ・ 夜戦時または夜間作戦航行時に、艦を敵から発見されにくくする為、一種のカモフラージュとして全体を黒に塗った。

     栗田艦隊は、昭和19年10月18日の午前2時にリンガ泊地を出港し、出港後航行中の同日午前10時に塗装しています。わざわざ航海中に塗ったのは、この塗料が非常に剥離しやすかった為ではないかと思われます。また栗田艦隊は2日後の10月20日にブルネイ湾に入港、翌21日に燃料を補給し22日にブルネイ湾を後にし、レイテ湾に向かいましたが、もし戦闘時の木甲板の延焼防止のみの目的で塗装を行なったと考えるなら、ブルネイ湾で行なう方が戦闘の直前であるし、航海中に塗るより安全上好ましいと考えられます。これから考察するに、夜間戦闘に対する塗装の可能性の方が高いと考えます。

     このように、当初は防火対策として、不燃性の塗料を塗布し、木甲板を延焼から守る為ではないかとも考えましたが、やはり敵からの視認性低下を謀る為の一種の迷彩だったと考えられます。

     余談ですが、日本でも迷彩に関する研究をした事がありました。
     この具体的な資料としては、リントン・ウェルズ2世著作:帝国海軍艦船の塗色 1904-45が世界の艦船が挙げられます。この対潜塗色の項で、日本海軍でも昭和18年3月に横須賀の海軍航海学校に迷彩に関する委員会が設置され空母の飛行甲板に関する迷彩を主体に艦艇や一部の商船の迷彩について検討されたと記述されています。3000t級の船舶5隻を使って実験したところ、対潜迷彩についてはある程度の成果(後の外舷1、2号と呼ばれる緑色の外舷色もこの報告に含まれます)を得ましたが、航空迷彩についてはほとんど無益なものと結論づけています。確かにいくら甲板を黒に塗ろうが、航行中は航跡の方が目立つ為、どんなカモフラージュをしても役に立たないという事は容易に想像できます。更に昭和19年3月にも空母迷彩の検討の為、パイロットや光学技術者も含め空母雲鷹、大鷹、千歳、雲龍に数パターンの迷彩を施し検討しましたが、空中からの視認性も他艦種への誤認性もないと結論しています。後の色のスケール性でも述べてますが、英米諸国が第一次大戦時より迷彩塗装の研究をしているのに比べ、日本は前述のように大戦中期になってからやっと研究を開始してます。このため、日本艦艇の迷彩塗装についてはかなりの混乱があったようで、事実、捷一号作戦に参加した瑞鶴を始めとする4隻の空母にはしていなよりは多少ましという事で迷彩を施されましたが、見るからに味方機が着艦しづらい迷彩であった為か、それを回避する為、迷彩効果を台無しにするような着艦用の白線が飛行甲板に引かれています。

     迷彩塗装実験がそれほど効果が無かったとはいえ、大和型を初めとする戦艦は木甲板部分が広く、尚かつ風雨にさらされ木甲板が白っぽい為、極めて隠匿性が悪いとの指摘受けていた(株式会社大協サプライ刊岩佐二郎著「レイテ沖海戦記」P81)のは事実です。特に捷一号作戦ではその道中であるサンベルナルディノ海峡からレイテ湾まで、その巨体を敵から見つからないようにしなければなりません。この為、重要部分の作戦行程は夜間を利用し、尚かつ木甲板を黒く塗装して敵からの視認性を低くしたものと思われます。

     しかしながら、
    江畑謙介著、軍艦の塗装(モデルアート連載)11回で迷彩塗装についてでも記述されているように、当時の日本海軍では戦艦は主力艦であり絶対の存在である為、迷彩ごとき見栄えのしないものは受け入れられなかったものと思われますが、捷一号作戦の本来の目的は国の雌雄を決する戦艦同士の艦隊決戦でなく、忍者のごとく身を隠しつつレイテ湾に進入し、米軍輸送船団を水上艦艇の砲撃で強襲・撃滅することでした。このため戦艦も主力艦としてではなく、単なる大口径砲搭載した移動砲台的な役割を担ったにすぎません。このため、甲板に黒塗装を行うことにやむなく同意したものと思われます。

    なお、重巡愛宕が沈没するまでは栗田艦隊の旗艦だったと言うことも、この作戦が水雷戦的な任務とされていた理由です。

    また上記理由により、大和、武蔵の甲板への黒色塗装は、捷一号作戦時のみと考えられますし、栗田艦隊の戦艦は全て甲板を黒で塗装されていたのではないかと考えられます。調査したところ、長門については「戦艦長門 副砲のうた」著作 田島隆正氏 出版者 :田島修身氏 : 国会図書館請求記号:GB554-E585で確認できました。金剛と榛名に関しては未だ証言が見つからないのですが、2000年の丸12月号特集「ロシアの潜水艦」のモノクログラビアトップの捷一号作戦中米軍機より上面から撮られた榛名は甲板が黒く塗装されていたように見えます。

    ・木甲板に塗った黒い塗料は何なのか?

     この黒い塗料はどのような組成だったのでしょうか?これは戦艦武蔵建造記録のP229、4.防火対策の強化の項に記述がされています。

    時期
    塗料(主に艦内)
    その他
    初戦〜1943年7月頃
    植物油性塗料(燃性)
    ・艦内可燃物の全面撤去
    ・消防設備の完備
    1943年7月頃〜亜鉛が重要統制物資になるまで 無機質塗料(アートメタル・ペイント)
    組成:亜鉛粉末75%, 酸化亜鉛25%,を水ガラス水溶液で練り合わせる。
    亜鉛統制後〜 硅石粉または、カーボンブラック混入の石灰を水ガラス水溶液で練り合わせる。 剥離しやすく、塗色も暗い。

     この表より、カーボンブラックを多量に混入し黒色に近い石灰を水ガラス水溶液で練り合わせた物と推測されます。

     ところで、大和は「海の戦記 特攻 戦艦大和」の中で黒の不燃性塗料を塗ったという記述が記載されていますが、武蔵については、重油を塗った、油を塗った、砥粉を塗ったなど様々です。大和の場合は判るとしても、何故武蔵はわざわざ可燃物を塗ったのか、それが疑問でしたが..IWAさんより以下のメールを頂きました。

    >><甲板に塗った重油のこと>
    >>塗ったのは重油ではなくて重油のススです。
    >>武蔵の事だと思うのですが、主機のボイラーから大量に出てくる燃料重油の燃え滓の
    >>スス(これは不燃物です)を塗装材として使ったというのを聞いたことがあります。
    >>砥粉と呼ばれている塗装材の正体が重油のススなんだと思います。本当の砥粉は
    >>もったいないし、そんなに大量には調達できないと思います。

    このIWAさんからの情報を類推すると以下の塗料が浮かび上がりました。
    それは、不燃物のススを水ガラスで溶いた不燃性塗料です。
    カーボンブラックは、実は不燃性のススだったようです。

    つまり、武蔵の証言者がススを見ていた場合砥粉になりますし、水ガラスで溶いた後の重油の臭いのする黒色塗料を渡されれば、重油とも油とも思うでしょうし、大和の乗組員のようにこれは不燃性の塗料だと言われれば納得したでしょう。つまり本来は同じものを各証言者が自分自身の置かれた観点で見てしまった為、いろいろな証言に変わったのではないでしょうか?

    また上記塗料の場合、塗料としては剥離しやすかったのも頷けます。

    ・天一号作戦時にも大和は木甲板を黒く塗装したのか?

     それでは天一号作戦時も大和は木甲板を黒く塗ったでしょうか?この件に関し、私は現状(2004/6/6時点の資料解析)塗っていないと考えています。その理由を下記に連ねます。

    • 捷一号作戦は特殊な作戦であり、少なくとも栗田艦隊の戦艦は全てが甲板を黒く塗色された。しかし天一号作戦は艦隊特攻であり、わざわざ甲板を隠匿する必要はなかったし、日本海軍戦艦としてのプライドが許さなかったと思われる。
    • CLASSIC WARSHIPS PUBLISHING社のWARSHIP PICTORIAL 25 「IJN YAMATO CALSS BATTLESHIPS」のP25に大和の天一号作戦一日前である昭和20年4月5日に撮った記念撮影の写真が載っているが、この足下の木甲板を見ると地肌のままである。
    • ドキュメント戦艦大和 吉田満/原勝洋著 文春文庫 349-2 発行 (株)文芸春秋 初版 1986年4月25日 出版コード ISBN4-16-734902-7 C0131のP80のさらば内地よの章で、第2艦隊参謀 宮本中佐が第一艦橋から見渡したとき(引用開始)しかし大和は、ちがっていた。盥のような甲板の上は物静かで(引用終了)の証言にあるように、甲板を盥(たらい)と比喩してます。この比喩からすると、少なくとも捷一号作戦とも同様、出港時には塗装はされなかったようです。
    • 捷一号作戦の戦闘詳報には甲板を黒く塗ったと記載されているが、天一号作戦時の戦闘詳報には記載がないので、航海中に塗装はされた可能性が低い。

    尚、天一号作戦時の大和の写真を見ると、甲板が黒く見えるという方もいらっしゃいますが、白黒写真では本当の色を判別する事は非常に難しいです。その証拠として、戦艦三笠で撮った写真を加工してご覧に入れます。この写真は2004年3月にデジカメで撮ったカラー写真ですが、これを Photoshopによりグレースケールに加工しています。下記写真撮影時は晴れ時々曇りで雨も降っていないため甲板は乾いた状態です。それでも、甲板の方が廻りの構造物(艦艇色)より暗くなってます。大和が攻撃された天一号作戦時は曇天で、尚かつ水柱で甲板は海水を含んだ状況です。またカメラも現在のものより解像度等性能的に勝るものと思われませんので、コントラストを50%程度高くしたものも一緒に掲載しました。これでも甲板は絶対に黒だったと言い切れるでしょうか?






























    ・結論

     以上により現時点(2004/6/6時点の資料解析)では、大和の甲板は下記のような塗装形態をとっていたものと考えられます。

    大和木甲板の塗装
    行動時期
    木甲板色
    理由
    捷一号
    作戦前
    竣工時・整備時
    デッキタン
    檜(ひのき)の地色
    上記から2〜3ヶ月後
    灰色
    風雨や波にさらされ色が灰色に変化
    捷一号作戦時
    黒(又は濃い灰色)
    夜間行動作戦時の為のカモフラージュ
    天一号作戦時 灰色 風雨や波にさらされ色が灰色に変化


    (補足)海の戦記 特攻戦艦大和について

    著者 吉田俊雄(昭和20年海軍中佐、軍令部参謀)
    出版 R出版(旧名オリオン出版) 書籍コード 0020-2225-9001
    初版 印刷 昭和46年 7月 25日、発行 昭和46年 7月 25日
    定価 500円

     この本は、戦艦大和の記録でも下士官兵の戦いにに主体をおいた内容で、趣旨はあとがきのP193〜P194でも下記のように書かれています。
    (引用開始) (前略)大和の実際の企画担当者や、大和を実際にハンドルをまわして走らせ、カジをとり、タマをこめ、狙いをつけ、引き金を引くなど、みずから艦と一体になって、機械や装置をその手足で動かした人たち−主として下士官兵の戦いぶり、考え方を描き出すこと、大和そのものの働きを追うことに全力をあげた。(引用終わり)

     しかしながら吉田俊雄氏自体は、日向、榛名等には乗艦してたものの、大和には乗艦しなかったようです。
    そこで、昭和46年(1971年)1月10日に行われた岐阜の「東海地区戦艦大和会の総会」に出席し、同席した元大和下士官の方々34名から大和乗艦中の各自の持ち場のおりおりの状況を取材しその内容を、執筆されています。また文中では同会の出席者の顔写真も随所に掲載されてます。

     このため、大和での作戦時以外の艦内生活も描かれており、もちろん今回ここで書かせていただいた甲板の黒色塗装についても具体的に記載されています。

     尚、この本に協力した方達は、以下のとおりです。
     東海地区戦艦大和会
      清水芳人元少佐(副砲長)
      家田政六元(特務)中尉(主砲射撃指揮所の旋回手)
      市川三男元兵曹(九分隊主砲射撃幹部員)
      伊藤信隆元水兵長(電探伝令)
         ** 【申し訳ございません。お名前が間違ってました】
      佐藤志末吉元兵曹(十九分隊工作科)
      紫垣宗吉元兵曹(四分隊副砲砲員)
      杉浦宗一郎元兵曹(十分隊副砲発令所員)
      竹内昇氏
      富田旭昇氏
      永井正三氏
      野田秀吉氏
      畑中正孝元二等兵曹(後部特設機銃員)
      松山久平氏
      若田一郎氏
      奥田弘三(特務)少佐(大和艤装員後、2番主砲砲塔長)
      奥村昭ニ元二等兵曹(八分隊後部十一群正式機銃射手)
      神足正直元兵曹(十分隊副砲発令所員)
      長屋桂一元兵曹(九分隊主砲射撃幹部員)
      野呂昭氏
      藤吉只男元兵曹(十八分隊飛行科)

     また、後書きには紹介されていないですが、文中には和田健三特務少尉(後部機銃群指揮官)を始め数名の方の体験談も含まれています。そして、黛治夫元初代大和副長等軍令部関係の方々も執筆に協力されています。

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