大和及び武蔵の艦中央部構造物の変換を建造時、捷一号作戦時、天一号作戦時(大和のみ)で図示致します。
尚、最後に89式12.7cm高角砲等大和に搭載した火器を、図示します。
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黄色の部分は大和武蔵の竣工時の差異を示します。左が大和で竣工時(1941年12月~1943年5月)の状態を表します。右は武蔵で、公試直後(1942年8月)の状態です。武蔵は竣工より1ヶ月後の1942年9月に21号電探を艦橋トップの15m測距儀の上に搭載し1943年7月までこの状態でした。大和は1943年5月に21号電探を搭載しています。赤い部分(ラッタル)は、最後まで大和と武蔵の差異があった部分です。 |
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図は1943年7月の大和です。ただし武蔵との違いは、ラッタル(赤)の部分のみで、この時期の艦橋構造物に関しては大和も武蔵も殆ど違いがありません。1943年5月の入渠時の改装により、第一艦橋付近にあった空中線支柱や信号指揮所(いずれも黄色)は移設され、18cm海上見張用眼鏡のスポンソン(紫色)は拡大されました。武蔵では以上の変更を竣工時に行っています。また15m測距儀の上には21号電探(緑色)が装備されました。先の説明にもありましたが、武蔵では1942年9月に装備済みです。艦橋部の22号電探(水色)は大和が1943年5月、武蔵は1943年7月に装備しましたが、その後(大和が1944年3月、武蔵は1944年4月)18cm海上見張用眼鏡のスポンソン(紫色)の直下に移動されました。大和、武蔵とも1943年5月と7月の工事で信号所甲板(白)は後部に2m程拡張されたと言われてます。艦舷の艦窓(水色)は1942年10月の訓令対策にて1943年中頃までに塞がれたようですが、おそらく1943年の入渠時(大和が1943年5月、武蔵は1943年7月)だと思われます。両舷副砲前後の25mm3連装機関砲(オレンジ色)は、武蔵は竣工時に装備していましたが大和は1943年7月に装備したとの事です。 |
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大和は1944年2月25日~3月18日までの間に両舷の15.5cm副砲を撤去し12.7cm高角砲や25mm機関砲を増設し、対空防御機能を強化してます。上図は改装された後の大和の中央部です。艦橋部のラッタル(赤)は武蔵との違いを示しています。艦橋部の22号電探(水色)は18cm海上見張用眼鏡のスポンソンの直下に移動されました。また第2艦橋横の150cm探照灯管制装置は25mm増設機関砲の火器管制装置(黄色)に換装されたようです。艦橋基部の後部には兵員待機所(緑)が設置されています。また撤去された7,8番探照灯の所には、艦橋と煙突の間にあった94式高射指揮装置(水色)が移設され、94式高射指揮装置の部分には、25mm増設機関砲用の火器管制装置(黄色)が設置されました。3脚マストには13号電探(緑)が設置され、マストの後ろには電探室(緑)も設置されています。これに伴い3脚マストも一部補強(黄色)されたとの事です。前楼下部及び後楼廻りの25mm機関砲(黄色)のシールドは増設された25mm機関砲に移設され、同様に既設の12.7cm高角砲(黄色)のシールドも下段の12.7cm高角砲(緑)用に移設されました。下部に増設された高角砲甲板(緑)の周囲には25mm機関砲(緑)が増設されました。また後楼の横には増設した25mm機関砲用の火器管制装置(緑)が増設されています。 |
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武蔵は1944年4月10日~4月22日までの間に両舷の15.5cm副砲を撤去し対空火器増強を行いましたが、12.7cm高角砲の増産が間に合わず、電探や25mm機関砲の増設のみの強化に留まっています。上図は改装された後の武蔵の中央部です。艦橋部のラッタル(赤)は大和との違いを示しています。艦橋部の22号電探(水色)は18cm海上見張用眼鏡のスポンソンの直下に移動されました。また第2艦橋横の150cm探照灯管制装置は25mm増設機関砲の火器管制装置(黄色)に換装されたようです。艦橋基部の後部には兵員待機所(緑)が設置されています。また艦橋と煙突の間にあった94式高射指揮装置(水色)は撤去され、25mm増設機関砲用の火器管制装置(黄色)が設置されました。7,8番探照灯も撤去されましたが、ここには25mm単装機銃が設置されたようです。3脚マストには13号電探(緑)が設置され、マストの後ろには電探室(緑)も設置されています。これに伴い3脚マストも一部補強(黄色)されたとの事です。下部に増設された高角砲甲板(緑)の周囲には25mm機関砲(緑)が増設されました。また後楼の横には増設した25mm機関砲用の火器管制装置(緑)が増設されています。 |
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捷一号作戦時の大和は鮮明な写真もあり、ほぼこれが正しい形状だと思われます。ただしこの図ではマリアナ沖海戦後の6月末~7月初めにかけて増設された25mm機関砲は描き込んでおりません。尚、前回の考証では探照灯は敵機による攻撃防御の為裏返っていた物と思われましたが、武蔵会の「嗚呼戦艦武蔵」P220で都築恒夫氏が、マリアナ沖海戦時に雪風が探照灯を使用した対空戦闘対策を行いその戦訓に基づき捷一号作戦時でも照射攻撃を検討していたという事と、敵機により第一探照灯が射抜かれたという証言があったので、レンズ面を表にしました。 |
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大和同様、この図ではマリアナ沖海戦後の6月末~7月初めにかけて増設された25mm機関砲は描き込んでおりませんが、捷一号作戦時の武蔵の中央兵装は諸説あります。例えば第1、第2照明灯を下ろし、噴進砲を積んだとか、単装機銃を積んだ等あります。 しかし、別項のリサーチの通り噴進砲を積むには時期的に不可能、また戦闘詳報に記録がない等がありますし、大和自体が探照灯を最後まで6基のままだったと考えると、第1、第2探照灯は降ろさなかった可能性が高いのではないかと推測しています。第7,第8探照灯は大和同様撤去され、そこに単装機銃を搭載したというのが一般的です。考証のページに「捷一号作戦時の戦艦武蔵艦中央構造物兵装配置の考察」を掲載していますので、これもあわせて閲覧ください。 |
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天一号作戦時、150cm探照灯には防水布が巻かれていました。 |